雑文いろいろ
はしもとじょーじ
Last Updated on 25 Dec, 2007.
- わかったレベル
この前にあったセミナーの後、モヤモヤした気持ちで考えることがあった.そのセミナーの発表者は自分と共同研究をするために神戸へ来ていた人で、当然のことながら自分は彼の研究内容を良く知っていた(はずである).しかし彼の発表は惨憺たるもので、何を言っているのかほとんど理解不可能であった.セミナー中になされた質問からも聴衆がほとんど理解できていないことは明らかに思えたし、質問に対する返答も頓珍漢であったから質疑応答の後でも発表者が言わんとしていることが聴衆に伝わったとは思えなかった.これは酷いセミナーになってしまったと、世話人として申し訳ない気持ちでいっぱいになった.セミナーが終了した後になんとなく近くにいた人々と会話したとき、「いや本当に酷い発表で何もわからなかったと思います.指導不足でフラストレーションのたまる発表を聞かせてしまい申し訳ない」と言ったところ、「いや、そんなことないよ.よくわかった.面白かった」との返答.これは完全に想定外だったので混乱した.彼はただ「わからなかった」とは言いたくなかっただけなのかもしれない.でも彼の口ぶりはどうもそうではなく本当に満足していたように見えた.
その場はそれでお終いであったが、後で考えてみるとこういう場面(自分には本当に酷いセミナーとしか思えないのに満足している人がいる)は、これまでに何度も経験したことであった.これはいったいどういうことなんだろうか? 満足している彼らはスーパーマンでどんな悲惨な発表でも発表者が言わんとすることをきちんと理解できるのかもしれない.あるいは、あの程度の発表であれば内容を理解するのは当然で、ただ自分(はしもと)ひとりが愚かで理解できなかったに過ぎないのかもしれない.はたまた別の可能性もあるだろう.いずれにせよ何が正解なのかはわからないのだが、なんとなく自分が最後にたどり着いたところは、彼と自分ではわかったと思えるレベルが違うのではないか、というものだ.わかったと思えるレベルに差があれば理解度は同じ2人であっても、1人はわかったと言い、もう1人はわからないと言うことがあるだろう.もちろん、わかったと思えるレベルは同じ人の中にあっても普遍ではなく、対象によってレベルは上下する(自分の専門に近ければレベルは上がり、遠くなれば下がる)のが普通と思う.上でいう自分と他人でわかったと思えるレベルが違うというのはそういうことも勘案した上で、わかったと思えるレベルに差があるということである.
自分の感じているモヤモヤの原因が周囲の人々との「わかったレベル」の乖離にあるとしたら、問題はかなり大きいことになる.わかったと思ってしまうということは、もうこれ以上はわからなくてもいいや、ということでもある.なんでもかんでも全てわかるというのが不可能である以上、これくらいでいいやという限度が設けられるのは至極当然のことであるのだが、そのレベルをどこに設定するかはかなり重要な問題であるはずだ.これくらいでいいや、そこから先は自分の世界の外側、そう思ってしまえば壁ができてその外はわかる必要がないし、また逆にその外側にいる人に(自分の研究を)わからせる必要も感じなくなってしまう.わかったレベルが低下し続けるといずれは顔と名前の他は対象(火星やってる人、隕石やってる人、etc)と手法(理論屋さん、観測屋さん、etc)の分類ができればOKとなってしまうことだろう.
わかったレベルをそれなりなレベルに維持することは、おとなりさんと楽しい会話をするために必要不可欠なインフラの整備であると思う.学問の精密化は必然的にわかったレベルの低下を誘因するものであるから、わかったレベルの維持は意識しておこなわなければならない.これくらいで満足してちゃダメなんだ、もっとちゃんとわからないと(わからせないと)ダメなんだ.そういうしつこさを事あるごとに見せていくことが、わかったレベルの維持には必要なのだろう.惑星科学フロンティアセミナーはそういうわかったレベルを維持/引き上げる活動のひとつでもあると考えていて、セミナーに参加した人の中からこういう価値観に共鳴し楽しい会話のできる惑星科学コミュニティを一緒につくってくれる人が増えてくれればと願っているのである.
はしもとじょーじ(惑星科学フロンティアセミナー世話人)