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火星現象論: 火星の気候変動
地球流体電脳倶楽部
1997 年 1 月 23 日
概要:
火星の気候変動を概観する.
軌道要素, 自転運動のパラメータが変化することで気候変動が起こることが
考えられる.
このときの変動は準周期的で, その周期は地質学的時間スケールに比べて小さい.
極域に多量の交換可能な揮発性元素, 特にCO, HO が埋蔵されて
いなければ, このときの気候変動は小さい.
気候に影響を与える軌道及び自転運動に関するパラメータは以下の三つである(Carr,
1996).
- 軌道離心率(eccentricity)
南北両半球の気候の非対称性の原因(南半球の暑くて短い夏の原因)である.
暑くて短い夏はダストストームの発生に影響すると考えられている
(これまでの観測例は南半球で発生).
ダストストームは大気の温度, 循環構造, 水輸送に影響する.
極冠のアルベドも変化させるので極冠の安定性にも影響する.
よって離心率のダストストームを通しても気候に影響すると考えられる.
- 離心率が小さいと南北半球の気候の違いは小さい.
- 離心率が大きいと(現在のように)南北半球の気候の違いは大きい.
現在値は0.093.
0から0.13まで変化する(Ward, 1992).
10yr より前では不確定性が大きい.
周期200万年(2Myr)の長周期成分に周期10万年(10yr)の短周期成分が重ね
合わさった変動をする(図1 上段).
図1 離心率, 傾斜角の変化の計算例(Ward, 1992; Carr, 1996, 図6-1).
- 歳差運動(precession)
自転軸の歳差運動の周期は173,000年, 軌道面の歳差運動の周期は70,000年
(Ward, 1973).
これらの運動により春分・秋分を結ぶ線と近日点・遠日点を結ぶ線が回転する
(「火星現象論: 火星の基本的数字」参照).
これにより暑くて短い夏になる半球が周期51,000年で交互に入れ替わる.
自転軸の歳差運動は惑星自身の地球物理的な変化によっても変化する.
歳差運動の周期は
と表される.
ここでは黄道傾斜角, は歳差定数で
と表される.
は万有引力定数, は太陽の質量, は自転角速度, は
軌道長半径,
で は慣性モーメントの主値,
は惑星の質量, は惑星の半径である.
よって惑星内部の「分化」や Tharsis 及び Elysium といった火山の形成により
慣性モーメントが変化すると, 歳差運動も変化する.
他のパラメータとの共鳴も変化する.
- 黄道傾斜角(obliquity); 赤道面と黄道面のなす角
黄道傾斜角(以後単に傾斜角と書く)の変化が気候に及ぼす影響は, 離心率や
歳差運動の変化による影響よりも大きい.
現在値は25.19, 13 から42 の間を変化する.
平均値は24 (Ward, 1992).
変動周期は12万年(1.210yr).
その振幅は周期200万年(2Myr)で変調する(図1 下段).
離心率の場合と同様に10yrより前は誤差が大(Ward, 1992;
Lasker and Robutel, 1993; Touma and Wisdom, 1993).
地質学的時間スケールの間で黄道傾斜角は0 から60
まで変化する可能性がある(Lasker and Robutel, 1993; Touma and Wisdom, 1993).
これは他の地球型惑星には見られない特徴である.
傾斜角が変化すると太陽からの入射放射量の緯度分布が変化する.
変化の様子を図2に示す.
図2で縦軸は平均入射フラックスで規格化されている.
傾斜角が小さいと年平均の入射放射量は緯度により大きく異なり, 極では0.
傾斜角が増加するにつれて低緯度では減少し高緯度では増加.
傾斜角50 で緯度による違いがなくなり, 54
以上になると高緯度での入射放射量は低緯度における値よりも大きくなる.
極域は傾斜角が小さい時期では揮発性元素の貯蔵庫となるので,
傾斜角が増加する時期になると大気中に揮発性元素, 特にCO, HOが
放出されるようになる.
- 軌道傾斜角が大きいと極域の入射放射量は大.
大気に揮発性元素が供給されやすくなる.
- 軌道傾斜角が小さいと極域の入射放射量は小.
大気の成分となる揮発性元素が極域で凍結されたままになる.
図2 傾斜角の変化による入射放射量の変化(Ward, 1992; Carr ,1996, 図6-2).
傾斜角の変化により大気, 極冠, 表土間での CO
と HO 分布が変化することが考えられる.
ここでは傾斜角変化による大気中の CO 量の変化を見積もる.
- 極冠
極冠は一年中存在する永久極冠(residual cap)と季節によっては消失する季節極冠
(seasonal cap)に分けられる.
南北の永久極冠についてその大きさと成分は, 以下のようになっている
(Tanaka et al., 1988; Kiffer et al., 1976; Kieffer and Zunt, 1992).
|
北半球の永久極冠 |
南半球の永久極冠 |
|
面積 |
837 km |
88 km |
|
成分 |
|
|
|
厚さ |
1km |
1m 100m |
|
南半球の永久極冠に含まれる CO は大気中の量の 0.6 〜 60% に相当する.
仮に傾斜角が増加して永久極冠がなくなってしまうと, 地表の平均大気圧力は
現在の 5.6 mbar から最大 9 mbar に増加する.
- Polar layered terrains
極域の縞状になっている領域(図6, 「火星現象論: 火星の表面地形」参照)で,
CO と HO の包接化合物の存在が推測されている.
この包接化合物は次のような性質を持つ.
- CO の周囲を HO が取り囲んだ構造で, 比は 1:5.75 .
- 極域の温度下で圧力 100 mbar 以上または地下 10 m より下で安定に存在する
(Miller and Smythe, 1970).
Jakosky et al. (1995)は北極の poler layrered terrain がこの包接化合物
で構成されている場合, 圧力にして 0.2 bar, 固体の CO で構成されて
いる場合 0.85 bar の CO に相当すると見積もった..
火星史初期の厚い大気は包接化合物または固体として極域に凍結されていると主張
している.
この主張に従うと傾斜角が増加すると大気中に数百 mbar の CO が
放出され, 気温は 10 〜 20K 上昇する.
しかし包接化合物の存在を裏付けるような観測はない.
- 表土
表土には CO が吸着して存在しているとされている.
しかし吸着状態の温度・圧力依存性はよくわからない.
傾斜角変化による変化する吸着量は, 温度変化の領域と表土の組成に
依存する.
軌道要素の変化にともなって温度が変化する深さは,
で評価される.
傾斜角の変動周期は 10yr のオーダーなので, 代表的な熱拡散率
15myr を用いると影響される深さは 1km 程度
と見積もられる.
図3は傾斜角変化による地中温度の変化を緯度別に計算したものである
(Fanel et al., 1982).
高緯度の方が温度変化が大きい.
図3 傾斜角の変化による緯度ごとの地中温度の変化(Fanel et al., 1982
; Carr ,1996, 図6-3).
岩石の吸着能力はその鉱物組成と粒形に依存する.
Fanale and Cannon (1979) は, 火星の温度圧力条件下で玄武岩(basalt)と
粘土質岩石(notronite)について CO の吸着量を評価した(図4).
これによると吸着量は圧力に比例, 温度には逆比例の傾向があることがわかる.
また粘土の方が同じ条件での吸着量が大きい.
図4 玄武岩と粘土の CO 吸着量 の変化(Fanel and Cannon, 1979
; Carr ,1996, 図6-4).
- CO 分布の計算
Fanale et al. (1982) は傾斜角の変化によって生じる大気と表土, 極冠の間で
の CO の分布量の変化を計算した.
表土は厚さと組成(玄武岩と粘土岩)の比を適当に変化させる.
CO の量は現在の傾斜角で CO 大きな永久極冠ができない
という条件を課した.
図5にその計算例を示す.
ただしここでは表土を厚さ 400m の粘土とした.
A は大気, PC は極冠, HLR, LLR はそれぞれ高緯度と低緯度の表土を表す.
- 傾斜角が最も小さいとき CO のほとんどは極冠に存在する.
- 傾斜角が増加すると極域に日が当たるようになり, 極冠が融ける.
大気の圧力が上昇し, その結果表土の吸着量が増加する.
高緯度の方が吸着量が大きいのは温度が低いためである(図4参照).
- さらに傾斜角が増加すると高緯度の表土では脱着が始まる.
これは温度上昇が低緯度に比べ高緯度のほうが相対的に大きいため.
このモデルで大気中に最も多くの CO が放出されるのは, 傾斜角
50 のときで大気圧は 25 mbar になる.
よって極域によほど大量の CO が存在しないと, 傾斜角が変化しても
地表で液体の水が存在できるほどの温室効果が生じる大気圧(1 bar 程度)には
ならない.
図5 傾斜角変化による大気, 極冠, 表土間の CO 分布の変化
(Fanel et al., 1982; Carr ,1996, 図6-5).
polar layered terrains は傾斜角変化の影響の大きい極域にあることと,
その縞模様に規則性が見られるので, その形成には傾斜角変化が影響したと考え
られている(Murray et al., 1972).
Cutts (1973) や Cutts and Lewis (1982) は次のようなシナリオを
提案している.
傾斜角が増加すると極域から CO が大気に供給される.
よって大気が厚くなり, 気温が上昇する.
気温が上昇するとダストストームの発生頻度が増加する.
このためダストは polar layered terrains に傾斜角が大きい時には堆積し,
小さいときには堆積が起こらず浸食される.
これが交互に繰り返され polar layered terrains が形成される.
これに対し, polar layered terrains の縞模様は単に地形の高低差を反映している
だけである, という意見もある(Howard, 1978).
地形により terrain の表面に高低差が生じると, 日なたで昇華が起こり日陰で
凝結が起こるようになる.
その結果日陰では堆積し, 日なたでは浸食されたような谷ができあがる.
こうして縞模様は新しい物質が堆積しなくても, 浸食作用で形成される.
図6 北半球夏の poler layerd terrain(Carr, 1996, 図6-7).
一次元鉛直放射対流平衡大気モデルを用いて, 過去に温暖な気候が存在した
かどうかが調べられている.
- Pollack et al. (1987) は COHO 大気の
一次元放射対流平衡大気モデルの計算を行った.
臨界温度減率は湿潤断熱減率を用い, 相対湿度は地表で 0.77 を初期値,
圧力に比例するようにした.
計算結果を図7に示す.
これより液体の水が存在するためには,
- 0.215(現在のアルベド), (現在の太陽定数)では,
2.2bar .
- 0.215, 0.75 では, 5bar.
の地表気圧が必要になる(図7実線).
0.75 は 3.8Gyr 前の太陽定数に対応する.
0.1 にすると多少低下する(図7点線).
図7 Pollack et al. (1987) の計算結果(Carr ,1996, 図6-10).
- Kasting (1991) も同様の一次元計算を行っている.
モデルの設定は Pollack et al. (1987) とほとんど同じだが, CO
の凝結過程を含めている.
結果は図8示す.
図中の数字は太陽定数の比を表す
- 現在のパラメータで 2.2bar とすると, 地表温度は 9K
低下.
- 0.9 で「暴走凝結(runaway condensation)」が現れる.
0.7(初期火星)において, 地表温度は 1.5bar で最高 214
K .
図8 Kasting (1991) の計算結果(Carr ,1996, 図6-11).
どちらの計算も COHO 大気では初期火星の条件下で液体の
水が地表で存在した状況を作れない.
二次元にしても結果に大差はないと想像される.
過去の火星には一時的には海が存在したことがある, という主張が Baker et al.
(1991) によってなされている.
かれらが議論の出発点にしたのは, 次のような観測事実である.
- Amazonian に流水活動が存在した痕跡.
- Amazonian 期の南半球の高地に氷河地形が存在.
- 北半球の平原には海岸線の跡(fossile shoreline)のようなものがある.
これより北半球には海が繰り返し現れ, 一時的に温暖湿潤な気候を
形成し Hesperian から Amazonian に進むにつれて減衰した, と考えた.
彼らの議論の中で, 海は以下のようなプロセスをたどり形成される.
- 現在とほぼ同様の気候から出発する.
これは Noachian 後期で予想される.
- Tarsis 付近での大規模な火山活動により地中の氷が融解し,
地化水系に大量の水を供給する.
- Chryse basin 付近で地下水の噴出と洪水が起こる.
あちこちで同時にこのような洪水が発生し海を形成する.
Baker et al. (1991) で示された海の大きさを以下に示す.
海岸線高度(km) |
体積(10km) |
面積(10km) |
平均水深(km) |
全球の深さ(m) |
0 |
6.5 |
3.8 |
1.7 |
450 |
-1 |
3.1 |
2.8 |
1.1 |
210 |
-2 |
1.0 |
1.4 |
0.7 |
70 |
海が形成されたことにより, 気候は温暖化するとしている.
温暖化とその後の進化は次のように進む.
- 地下水が噴出して海を形成するので, 地中に固定されていた CO
も地表に出ると予想される.
よって大気中に CO が供給される.
火山活動による脱ガスによっても CO が供給される.
- CO, HO の増加で大気が厚くなり温暖化する.
極域からもガスが供給されるようになり, 温暖化はさらに進む.
- 温暖化にともなう降水でバレー, 氷河を形成する.
その後は寒冷化に向かう.
- 大気中の CO は海に溶けて炭酸塩となり固定化される.
よって大気は薄くなり, 徐々に寒冷化する.
- 永久凍土がないため海水が地表に染み込んで地化水系に水が戻る.
- しばらくすると元の気候に戻る.
しかしバレーや氷河を形成するだけの時間はあるとしている.
このシナリオはいろいろな問題点を一つの枠組の中で解決することができる.
しかしここに示されたさまざまな過程が実際に実現したがどうかはわからない.
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謝辞
本稿は 1996 年に東京大学地球惑星物理学科で行われていた,
固体火星セミナーでのセミナーノートがもとになっている.
小高正嗣によって地球流体電脳倶楽部版「火星現象論」
として書き直された(1997/01/23).
構成とデバッグに協力してくれたセミナー参加者のすべてにも
感謝しなければならない.
本資源は著作者の諸権利に抵触しない(迷惑をかけない)限りにおいて自由に利用
していただいて構わない. なお, 利用する際には今一度自ら内容を確かめること
をお願いする(無保証無責任原則).
本資源に含まれる元資源提供者(図等の版元等を含む)からは, 直接的な形での
WEB 上での著作権または使用許諾を得ていない場合があるが, 勝手ながら, 「未
来の教育」のための実験という学術目的であることをご理解いただけるものと信
じ, 学術標準の引用手順を守ることで諸手続きを略させていただいている. 本資
源の利用者には, この点を理解の上, 注意して扱っていただけるようお願いする.
万一, 不都合のある場合には
まで連絡していただければ幸いである.
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Odaka Masatsugu
平成19年5月29日